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愛知県田原市の情報 愛知県田原市の概要
田原市(たはらし)は、愛知県南端、渥美半島にある市。 気候は黒潮の影響により温暖である。 愛知県田原市の地理 愛知県田原市の歴史 田原市域には縄文時代には人々が住んでいたことが知られ、縄文晩期の遺跡吉胡貝塚・伊川津貝塚からは多数の人骨が出土している。11~13世紀には窯業が栄えた。後世渥美焼と呼ばれることとなった陶器は、現在平泉など各所で発掘されている。渥美焼の窯跡であった大アラコ古窯跡や百々陶器窯跡などは国指定史跡になっている。また、12世紀末の東大寺再建の際には、建築物の屋根瓦の調達元となった(伊良湖町に窯跡が残る)。ただし渥美半島の陶器生産は14世紀ににわかに途絶えてしまっており、その原因も諸説あるものの不明である。 田原市の神戸地区は、伊勢神宮荘園であった。(飽海本神戸・新神戸・大津神戸・伊良湖御厨) 市の中心部である田原は、戦国時代には戸田氏、江戸時代には三宅氏の城下町として栄えた。三宅氏の田原藩は1万2000石の小藩ながら譜代大名・城持の家格であり、最高裁判所のある東京の三宅坂は三宅氏の田原藩邸があったことから名付けられた。ただし、半島ということもあり慢性的に水不足に苦しみ、さらに強風と地味の悪いこともあって農業は振るわず、田原藩は経済的には困窮し続けることとなった。 田原藩から出た人物としては、江戸時代後期の代表的画家で、文人でもある渡辺崋山が有名である。田原藩の家老として政務をとった渡辺崋山は優れた政治家でもあり、農学者大蔵永常を招いて農政改革を行い、天保の大飢饉の際には藩内から1人も餓死者を出さないなど優れた行政手腕を発揮し、田原の人々に今もなお慕われている。 明治以降は養蚕業が盛んとなり、戦前には小さいながら芸者街が出来るほどであった。戦後は、唯一の産業であった農業が振るわず経済的に衰えた。この時期の田原を支えたのは市北部で産出する石灰岩の採掘であった。しかし1968年に豊川用水が開通、同時に土地改良と耕地整理を実施し、さらに商品作物や花卉園芸を集中的に行うことにより、全国有数の大規模近郊農業地帯として発展を遂げた。 また、1979年にトヨタ自動車の田原工場が稼働を始めてからは、第二次産業従事者の流入とともに人口も増え、町の財政も豊かになった。そのおかげで、公共施設の建て替えや区画整理などの大型事業の実施が可能となった。旧田原町は普通交付税不交付団体であったが、渥美町編入後の田原市となった2006年現在の財政力指数は1.20で、普通交付税不交付団体になっている。2005年度までは東三河で唯一の不交付団体であった。 渥美郡の、旧田原町、野田村、神戸村、杉山村の一部の1町3村が合併し1955年に形成された田原町が、1958年に町制を施行した赤羽根町を、合併(編入合併)し、2003年8月20日成立。愛知県32番目の市である。2005年10月1日には、渥美町を編入した。 渥美町地区には、江戸時代、大垣系の戸田氏が陣屋を置き(現、田原市福江町)、畑村藩の領地になっていた所もある。 参照:Wikipedia http://ja.wikipedia.org/
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