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千葉県市川市の情報 千葉県市川市の概要 市川市は、旧江戸川をはさんで東京都のすぐ隣で、都心から20km圏内に位置し、首都圏のベッドタウンとして発展している。南部は住宅地としてひらけ、北部の傾斜地等には豊かな自然が斜面林などとして、いまだ残っている。 市の一部は高級住宅地と言われ、東京に近いこともあり過去には永井荷風、幸田露伴(次女の幸田文、孫の青木玉も同居)、北原白秋など数多くの文人が好んで住んだり、市川に関する記述がある作品も多い。これら文人の足跡が、市民団体や市などの手で「市川文学の散歩道」として残されている。また、八幡、菅野、真間地区、市川地区及び新田地区の一部には市の木であるクロマツも多く静かなたたずまいである。これらの地区は、戦前は東京下町の富豪が別荘を構えたり、戦後も敷地の広い邸宅が多くあった。しかし、近年は、相続等の関係で切り売りされたり、マンションや駐車場に変わってしまい大邸宅も少なくなった。また、車社会となり路地が狭く入り組んでいる等、不都合ともなっている箇所も多い。人口の増加や開発も進み閑静な風情も薄れつつある。 千葉県市川市の地理 千葉県市川市の歴史 市川市は、縄文時代の昔より栄えた地域で、市内には堀之内貝塚、姥山貝塚、曽谷貝塚等多数の貝塚があり、その集中度は国内最大級である。また、律令時代には市域に下総国の国府が置かれた。市内の真間に手児奈という絶世の美少女がいたという伝説があり、その噂は遠く都にまでとどき万葉集に詠まれるほど有名で、当時は東国(関東)を代表する地域だった。 市川の地に人が住みはじめた歴史は古く、市内北部の台地上には、旧石器時代の遺跡がいくつかある(丸山遺跡、権現原遺跡、今島田遺跡等)。また、貝塚等縄文時代の遺跡は約60カ所にのぼる。さらに、弥生時代の遺跡も何箇所かある(須和田、杉ノ木台、小塚山、宮久保、国府台等)。 市川市の中でも、国府台(こうのだい)より広がる高台は、常に市川一帯の歴史を担って来た。古墳時代には小集落ができた。古墳はこのときはまだない(北根、前原、鳴神山、杉ノ木台)。その後、この高台上に多くの古墳が築かれた。法皇塚古墳(東京医科歯科大構内)、弘法寺古墳(真間山弘法寺敷地内)、明戸古墳(里見公園内)の3基の前方後円墳の他、国府台近辺だけで約30箇所の古墳があったと推定されている。 その後、国府台に律令制により国府が置かれ、下総国の中枢となった。10世紀には平将門の乱に巻き込まれ、12世紀には石橋山の合戦に敗れて安房国に落ち延びた源頼朝が、上総介広常と下総国府で合流して軍勢を立て直した。15世紀には太田道灌と里見義堯が国府台城を築城し、二度にわたる国府台合戦の舞台となった。 戊辰戦争の際には、江戸を脱出した大鳥圭介が率いる旧幕府陸軍が、国府台に集結した。これに土方歳三らの新撰組も合流した。1ヶ月ほどで大鳥・土方らは北へ向かったが、その後、別の旧幕府軍と官軍の戦いが、この台地下の市川から船橋にかけて戦われた(市川・船橋戦争)。 幕末、国府台地区は勝海舟によって国会議事堂の選定地として考慮に入れられたこともある(恐らくテームズ川にそった英国の国会議事堂を想定していたと推測される)。また、明治8年には、教育機関の最高学府として国府台大学校計画(この計画は岩倉使節団 に随行して欧米諸国の大学校を調査してきた田中不二麿を中心に「欧米二通ズ真ノ高等大学校」の実現を目指して計画されたもので、現在の東京大学とは別の教育機関として構想されたものだった。)が持ち上がり、具体的な案もまとまり、土地の買収交渉も進められていたが諸事情により実現しなかった。さらに明治18年には都心からのアクセスがよく、渡河訓練をはじめ、各種訓練に適した立地に恵まれていたことから陸軍教導団が置かれた。教導団は明治32年に廃止されたが、その後、陸軍の野砲兵連隊・国府台陸軍病院などが置かれ、市川は軍都として栄えた。 終戦後、陸軍の広大な土地は、国立国際医療センター国府台病院(旧・国府台陸軍病院)、国府台スポーツセンター、東京医科歯科大学、千葉商科大学、和洋女子大学、筑波大学附属聴覚特別支援学校、千葉県立国府台高等学校、市川市立第一中学校の各施設に変わった。 国府台以外の地区についていえば、中山地区は、中山法華経寺の門前町として発展した。行徳地区は成田街道の宿場町として、また江戸川水運の中心地として発展した。また、近世における行徳地区の製塩業は有名である。
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