|
福島県郡山市の情報 福島県郡山市の概要
郡山市のランドマークとなっている郡山ビッグアイ(郡山駅前)
JR東日本郡山駅正面(2007年(平成19年)4月)
安積疏水幹線水路(2007年(平成19年)12月撮影)
郡山市の市域は、中央分水界となっている奥羽山脈の東西にわたる。市の西部は日本海側である猪苗代湖南岸に及び、中心部は太平洋側の中通り中部に位置する。 市の中心部は、宇都宮市と仙台市の中間に位置しており、東北新幹線・東北本線・東北自動車道・国道4号で繋がれている。また、西(日本海側)の会津若松市や新潟市と、東(太平洋側)のいわき市へは、磐越自動車道や磐越西線・磐越東線および国道49号で移動する事が可能である。そのため、東日本の交通の十字路として拠点化が進み、経済・内陸工業・流通・交通の要所として、東北地方第2の人口を擁する郡山都市圏を形成している。また、中通り南部や会津地方との関係も深く、県内最大の経済圏を形成していると見なされている。このような本市の拠点性により、県域放送をしているテレビ局2局とFM局1局が立地し、県庁所在地ではないにも関わらず、本県の情報集散地としても機能している。人口はいわき市に次いで県内第2位である。事業所数4734ヶ所、年間商品販売額1兆4515億円で、いずれも経済分野で県内で第1位であるが、交通事故発生件数、犯罪発生率もともに県内第1位となっており、「東北の大阪」と呼ばれている(昔は暴力団同士の抗争が絶えなかったことから「東北のシカゴ」とも呼ばれ、仙台市より治安の悪い都市であった)。最近でも交通事故・犯罪件数の多さに対処するため警察署が増設されるなど、福島県で最も活発な都市となっている。 江戸時代には奥州街道の郡山宿があったが、本市の発展は明治時代に開削された安積疏水の寄与が大きい。安積疏水は、農業用水として当地の開拓を進め、工業用水・水力発電・飲用水にも用いられて都市化を進めた。また、郡山駅が鉄道路線の分岐駅となって人や物が集散し、大正時代には市制施行して、本市が福島県最大の都市となった。戦後の高度経済成長期には京浜工業地帯の企業が多く進出し、関東地方との繋がりが強まった。現在は、物販・サービスの郊外化が進んで中心部の集客力が低下し、仙台経済圏の影響を受けるようになった。 県の中央に位置している点から、県庁を郡山に移転しようという動きがある。これは福島県成立当初から県庁舎の建替え問題の度に運動が行われて来た事であるが、県庁所在地である福島や、郡山との交通が比較的不便である浜通り北部の反対が強く、実現には至っていない。歴史的には、明治時代の移転運動の結果、県庁と引き換えに、当時県に一校だけであった旧制中学校を福島から郡山に移転することで和解した経緯もある。実際、市内の国道4号には二箇所に「福島県庁を郡山市に」という看板がある。 なお、郡山市には気象台の測候所がない。福島県内には福島、会津若松、いわき市小名浜、白河(現在は無人)の4箇所だけであり、テレビの天気予報でも郡山の気象状況は以前は伝えられなかった。これは、気象条件に左右される農業を営む市民だけでなく、そのほかの市民からも問題視する声が相次いだ。そこで、郡山市独自の「天気相談所」を開設したが、無人のアメダスポイントが設けられたことや、郡山市の行財政改革の一環で、現在、天気相談所は廃止されている。 福島県郡山市の地理 気候 一年を通して風が吹き、乾燥した気候である。市街地西部の猪苗代湖と郡山を隔てる山は低く、冬は雪雲が流れてくる事がある。 市西部の布引高原では、発電所出力65,980kWの国内最大出力の風力発電設備が電源開発株式会社により建設され、平成18年12月運転を開始した。 福島県郡山市の歴史 古代では7世紀の安積郡設置以来、安達・田村両郡が10世紀に分郡されるまで、現在の二本松市・田村市を含む広大な地域の中心地として機能していたとみられ、中心市街地直下に位置する清水台・咲田・虎丸遺跡が関係する遺跡として考えられている。 11世紀になると、東部を中心として藤原氏や熊野の荘園が設置され、樹枝状の低地にも開発が進んだ。鎌倉時代には伊東氏の宰領する土地であったことが文献から推測されており、鎌倉時代末期には東部地域が南北朝の争乱地帯であったことが知られている。 南北朝時代を経て室町時代を迎えると、安積町笹川に御所が設けられたことで、南東北の政治的中心地として文献に当該地域の地名が頻出するようになる。しかしながら、郡山市域の伊東氏は早くから分家が分立した状態にあり、中世を通じて主体的な権力を保持する戦国大名に成長するには至らなかった。そのため、当地の政治状況は中期以降は検段職を有する白河結城氏に属し、末期になると葦名氏や伊達氏の影響下にあった。その一方、経済的には、安積町の4号国道に沿った地域で実施された大規模な発掘調査によって、この地域が流通の拠点として機能していたことが判明している。調査では古代の街道と中世の街道が検出された他、多数の建物跡や堀・溝が発見され、出土遺物から12〜16世紀に亘る年代観が与えられている。 豊臣政権下の上杉氏を経て江戸時代になると、二本松城に織田系大名であった丹羽氏が入封し、郡山は城下以外の唯一の町であった。 明治時代の白眉は、初めての近代国家事業として安積開拓事業が実施されたことである。これは、猪苗代湖から疎水を開鑿して原野を開発し、失業士族を入植させようという事業であったが、地域経済に大きな効果を招来したのは疎水に伴う水力発電事業の方が大きかった。国内初の長距離送電の実現により、郡山には信州をはじめとする各地の資本により紡績工場が多数進出し、鉄道網の拡充と相俟って近代化が加速された。
参照:Wikipedia http://ja.wikipedia.org/
|
||
| ▲ページのトップへ |