|
群馬県桐生市の情報 群馬県桐生市の概要 地名の由来は、「桐が多く自生する土地」から「桐生」とも、「霧が多く発生する土地」から「霧生」とも言われているが、どちらも決め手は無い。ちなみに「霧生」という地名は三重県伊賀市に、「桐生」は岐阜県高山市、滋賀県大津市にも存在する。 日本を代表する絹織物の産地であり、製糸、撚糸、染織、縫製など、繊維に関する様々な技術が集積していることから「織都(しょくと)」という雅称がある。 市のキャッチフレーズである「ハイテクとファッションのまち」がしめすように、絹織物によって育まれた高い技術によって、パチンコ産業や自動車部品産業などでいくつもの優良企業が誕生した。また、地元に国立群馬大学工学部がある利点を活かし、産学官連携による次世代産業の育成にも積極的に動いている。 絹織物の繁栄により蓄えられた富は、桐生明治館・桐生倶楽部・水道山記念館など多くの文化財や市営桐生が岡公園・大川美術館などを生んだ。その充実度は、地方の中規模都市としては他に例をみることができない。下水道普及率も70%を越え、群馬県内の市では高崎市と並んでトップレベルにある。 長く桐生競艇からの収益に依存したこと、高い起業熱や優れた人材の多さが市内から全国区の優良企業を多く生んだことなどから、県内他市と比べて大型工場の誘致に熱心でなかった。 結果、現在では人口減少という深刻な課題が生じている。 工場の誘致活動も重要課題であるが、今後の日本全体の産業構造の変化を見据えた上で、製造業に依存しすぎない街づくりもテーマとされている。 野球が盛んで「球都」と呼ばれる。市内には全国制覇を経験した桐生第一高校や、甲子園で準優勝を二度果たした群馬県立桐生高等学校があるほか、硬式野球部を持つ7校中5校が甲子園を経験している。 隣接するみどり市とは、様々な方面で相互補充の関係にあることから、将来の合併を視野に入れた協力関係を築いている。 越境合併や、大規模な飛び地合併など、変わった市町村合併を数多く行ってきた。 群馬県桐生市の地理 地勢 関東平野の北端の一角にあり、北には足尾山地が連なる。また、市内には渡良瀬川や桐生川が流れる。 市域の7割以上が山地で、少ない平地の大半が人口集中地区となっており、桐生市街地は、桐生川が足尾山地から関東平野に流れ出す地点に形成された谷口集落を基礎として発達している。 2005年に合併した新里地区・黒保根地区(旧新里村・旧黒保根村)は、桐生市中心部とは間にみどり市を挟んで離れており、飛地となっている。平成の大合併以前の旧桐生市の面積(137.47km²)と、飛地として加わった旧新里村・旧黒保根村の合計面積(137.10km²)がほぼ同じであり、このような大規模な飛地のある自治体は日本でも数えるほどしかない。2008年現在の例では北海道釧路市の音別地区(旧音別町)、日高町、過去の例では山口県新南陽市の高瀬・和田地区があげられる。 平野
気候気候区分は太平洋側気候に属するが、夏と冬の気温の差が激しい内陸性気候の特徴もみられる。
2006年3月1日より、群馬県における天気予報および注意報・警報の細分区域が変更された。 一次細分区域は、桐生市を含む区域については、これまで通りの「南部」とされ、二次細分区域は、かつての「前橋東毛」(黒保根町を除く桐生市)・「赤城榛名」(黒保根町)から、全市域が「前橋・桐生地域」という区分となった。 「前橋・桐生地域」には、桐生市・みどり市の他、前橋市、渋川市、勢多郡、北群馬郡が含まれる。 人口年齢構成
面積
隣接する自治体
1889年(明治22年)町村制施行当時(桐生町) - 6村
1921年(大正10年)桐生町が市制施行(桐生市成立) - 6村
1933年(昭和8年)境野村編入 - 1町5村 - あらたに小俣町と接する。
1937年(昭和12年)広沢村編入 - 2町7村 - あらたに毛里田村、強戸村、藪塚本町、笠懸村と接する。
1954年(昭和29年)梅田村、相生村、川内村編入 - 3町6村 - あらたに大間々町、東村、飛駒村と接する。
1955年(昭和30年)坂西町成立 - 3町6村
1956年(昭和31年)飛駒村が田沼町へ編入 - 4町5村
1957年(昭和32年)強戸村が太田市へ編入 - 1市4町4村
1959年(昭和34年) 菱村編入 - 1市4町3村
1962年(昭和37年)坂西町が足利市へ編入 - 2市3町3村
1963年(昭和38年)毛里田村が太田市へ編入 - 2市3町2村
1990年(平成2年)笠懸村が町制施行 - 2市4町1村
2005年(平成17年)2月28日 田沼町が佐野市と合併 - 3市3町1村
2005年(平成17年)3月28日 藪塚本町が太田市と合併 - 3市2町1村
2005年(平成17年)6月13日 新里村、黒保根村編入 - 6市2町2村 - あらたに前橋市、伊勢崎市、沼田市、富士見村と接する。
2005年(平成17年)3月27日 みどり市成立 - 7市1村
群馬県桐生市の歴史 この地域の歴史は古く、奈良時代には既に朝廷へ「あしぎぬ(絹)」を献上したと記されている。養蚕業・絹織物業がこの地域において栄えた理由については諸説があるが、中央(大和地方)からその技術を持った人々が移り住んだ結果という説が最も有力である。それを思わせる伝承も「白滝姫伝説(桐生織の項目を参照せよ)」によって、当地方に語り継がれている。織物業はその後の桐生の発展の基盤となり、現在に至っている。 『吾妻鏡』などの文献によれば、平安時代末期に桐生六郎の名が見えることから、地名としての「桐生」は平安時代には既に存在していたと考えられている。ついで1350年には柄杓山(城山)に城を築き、桐生氏(藤姓足利氏の系統)の始めとされる桐生国綱、1500年代中ごろに桐生氏の全盛期を築いた桐生助綱の名が見られる。桐生氏は1500年代後半に由良成繁によって滅ぼされ、以降成繁は柄杓山城を本拠としたが、子の国繁の時に豊臣秀吉の小田原征伐により領地替えが行われた。 1600年、関ヶ原の戦いを直前に控えた徳川家康が小山に在陣中、急遽西進し石田三成を討伐することを決定するが、その際に不足した軍旗を僅かの時間に揃えたのが桐生の村々であった。これにより桐生の絹は一層名を高めたという。 現在の市街地が形成され始めたのは1600年頃、徳川家康の家臣であった大久保長安の命令を受けた大野尊吉によるものとされる。渡良瀬川と桐生川に挟まれた扇状地に桐生天満宮を基点として桐生新町が形成され、絹織物業の発展とともに市街地は郊外に広がっていった。 起点となった天満宮前は現在の本町1丁目となっており、2丁目とあわせて当時の区割りと建物がそのまま残された景観が保たれている。 桐生の織物産業の将来性は江戸幕府にも高く評価され、幕府の成立とともに天領とされた。近隣の村々(みどり市、旧藪塚本町(現太田市)、旧新里村)などの農村部では、養蚕が盛んに行われ、多くの富を蓄積。日光・川越・八王子と陸路で結ばれ、全国に広く絹織物を広めた。 天保年間に全国に先駆けてマニュファクチュアを導入。明治・大正・昭和初期にかけて日本の基幹産業として発展し、外貨獲得に貢献した。 戦後は、和装離れから絹織物産業は下火となったが、代わって自動車部品産業やパチンコ産業が台頭。幾つものチャレンジングな企業が生まれ、今日の桐生を支えている。
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ▲ページのトップへ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||