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群馬県勢多郡の情報 群馬県勢多郡の概要 令制国一覧 > 東山道 > 上野国 > 勢多郡 日本 > 群馬県 > 勢多郡 勢多郡 (せたぐん) は、群馬県(上野国)北東部の郡である。2009年に消滅予定。 人口22,321人、面積70.42km²、人口密度317人/km²。(2008年11月1日、推計人口)
以下の1村から構成される。
明治以前までは赤城山の山麓全域にまたがる郡であった。 群馬県勢多郡フ市齬需
群馬県勢多郡の地理 群馬県勢多郡の歴史 郡名の初見は『続日本紀』の天平勝宝元年閏5月20日。勢多郡少領の上毛野足人が記されている。このため上毛野氏の勢力範囲にあったと思われる。建郡年代や古代の郡域は共に不明であるが、中世には赤城山を中心にその山麓に広がっていた。 延喜式神名帳には名神大社である赤城神社(論社3社)が記載される。また赤城神社は上野国二宮でもある。 荘園については、大室庄、拝志庄、山上保、大胡郷などが郡内に存在していた。山上、大胡からはのちに秀郷流藤原氏の山上氏、大胡氏が出ている。 戦国時代、上杉憲政が上野での勢力を喪失したのち、勢多郡は武田氏、長尾上杉氏、後北条氏の三勢力の接する場となり、領主もめまぐるしく変わる争奪地となった。その後武田・上杉の勢力後退によって、天正年間後期にはほぼ全郡が後北条氏の勢力下に入った。 後北条氏の後、徳川家康配下の諸大名に勢多郡は領有された。南西部に前橋藩、南部に大胡藩、北部に沼田藩、そのほか天領や旗本領が混在していた。1616年(元和2年)には領主転出に伴い大胡藩が前橋藩領となった。 明治時代になると、旧天領・旗本領は岩鼻県となり、旧前橋藩領は前橋県となった。1871年(明治4年)の廃藩置県後には全域が群馬県となったが、県の変遷に伴い、1873年(明治6年)に熊谷県、1876年(明治9年)に群馬県になった。 1878年(明治11年)、郡区町村編制法制定に伴い、郡は赤城山を境に南北に二分され、赤城北麓に北勢多郡、南麓に南勢多郡が成立した。北勢多郡の面積は小さく、1896年(明治29年)に利根郡に編入された。同時に南勢多郡は東群馬郡と合併して勢多郡が再び成立した。 参照:Wikipedia http://ja.wikipedia.org/
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