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石川県金沢市の情報 石川県金沢市の概要 江戸時代には、江戸幕府(約700万石と言われる)を除いて最大の石高を誇る加賀藩(「加賀百万石」)の城下町として、江戸・大坂・京に次ぐ大都市として盛えた。第二次世界大戦で空襲を受けなかった事から市街地に歴史的風情が残り、小京都とも呼ばれる。また、長年の都市文化に裏打ちされた数々の伝統工芸、日本三名園の一つとして知られる兼六園、加賀藩の藩祖・前田利家の金沢入城に因んだ金沢百万石まつり、さらに庶民文化(郷土料理の治部煮等)などにより、観光都市として知られる。 気候は日本海側の特徴を有し、夏季にはフェーン現象で高温・乾燥となることがしばしばで、冬季は本州日本海側では中程度の積雪が見られる(平年値:降雪の深さ合計360cm、最深積雪53cm)。ただし、冬季の気温はやや高め(1月平均気温3.7℃)であり、近年は暖冬傾向であること、また、除雪・融雪が進んでいることなどから、冬季の都市生活に支障を来たすほどではない。 石川県金沢市の地理 地形 南東部は山地で、奈良岳(1,644m)をはじめ、大門山(1,572m)、医王山(いおうぜん、939m)などがある。平野に近い部分は丘陵地となり、戸室山(548m)、キゴ山(546m)、野田山(175m)、卯辰山(141m)などがある。北西部は金沢平野で、犀川、浅野川、金腐川(かなくさりがわ)、森下川(もりもとがわ)などが流れる。犀川は日本海へ直接注ぐが、他の川は河北潟へ流れ、大野川を経て日本海へ注ぐ。海岸部は砂丘となっており、河口部分は北向きに曲がっている。犀川上流には犀川ダムや内川ダムがあり、上水道・灌漑などに利用されている。現在さらに辰巳ダムという第3のダムが建設中であるが未だ反対派住民との解決には至っていない。犀川と浅野川は平行して流れ、その間の河岸段丘が小立野台地である。小立野台地の西端に金沢城や兼六園がある。また、犀川の南側は寺町台地となっている。 気候日本海側気候で、冬には雨・雪が降る日が多い。春や夏は好天が多く、フェーン現象が起きることもある。梅雨の影響は太平洋側と比較して少ない。11月末から12月にかけて雷が多い。 湿度が高く、伝統工芸の漆塗りや金箔製造に適している。 隣接自治体北側に内灘町、津幡町、東側に山地を挟んで富山県小矢部市、南砺市、南側に白山市、石川郡野々市町と接する。 石川県金沢市の歴史
「金沢」という都市名は、昔芋掘り藤五郎(典型的な炭焼き長者型のキャラクター)が山芋を洗っていたら、砂金が出たため、「金洗いの沢」と呼ばれたという伝説による。「金洗いの沢」は、兼六園内の金沢神社の隣りにあり、現在は「金城霊沢」と呼ばれている。 戦国時代の一向一揆で本願寺の拠点が置かれた尾山御坊(金沢御坊)と、その周辺の寺内町を起源とする。織田信長配下の柴田勝家の甥佐久間盛政が尾山御坊を攻め落とし、その地に尾山城を築城した。 賤ヶ岳の戦い以降、前田利家が尾山城(金沢城)を居城とし、加賀藩の原型が形成された。加賀藩3代目藩主前田利常の時代には支配機構の整備が行われ藩体制が確立した。5代目藩主前田綱紀は名君として名高く、木下順庵や室鳩巣、稲生若水といった学者の招聘につとめ学問を振興した。また彼は書物や美術工芸品の収集にも努め、それらは尊経閣文庫と呼ばれ現在に残る。その後金沢は150余年に渡り、加賀百万石の城下町として繁栄することとなる。 参勤交代の時、前田氏は約2,000人の家来を従え、現在の価値で片道約7億円をかけて江戸との間を往来した。金沢は、江戸時代に三都(江戸、大坂、京)に次ぐ日本第4位の人口(約10万人)を擁する大都市として発展し、美術工芸など現在に受け継がれる都市文化が花開いた。 明治時代に入ると、旧制第四高等学校(金沢大学の前身)や日露戦争の旅順攻囲戦で知られる陸軍第九師団が置かれ、学都・軍都として栄える。 太平洋戦争では金沢は空襲を免れた。このため江戸から大正・昭和まで各時代の面影が残る小京都の代表格となった。
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