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熊本県熊本市の情報 熊本県熊本市の概要 人口は約68万人(九州全体としては福岡市・北九州市に次ぐ3番目)、面積は266km²で、中九州地区もしくは広義の南九州地区最大の都市である。日本三名城の一つである熊本城を有し、熊本藩細川氏54万石の城下町として発展した。九州の地理的中心に近い位置にあることから、戦前は陸軍第6師団や国の出先機関が置かれ、九州を代表する軍都・行政都市として栄えた。戦後中心的機能の多くは福岡市に移ったが、現在でも財務局や国税局など九州内を広域管轄する一部の国の出先機関や陸上自衛隊西部方面総監部などが置かれている。相次ぐ周辺町村との合併で市域を拡大し、1977年には人口が50万人を突破。1991年には北部町・河内町・飽田町・天明町と合併し、人口は60万人を超えた。1996年には、改正地方自治法に基づく最初の中核市の一つとなる。2008年10月に富合町を編入して、現在の市域となった。 緑に恵まれており、「森の都」[1][2]と呼ばれる。また、豊富な地下水や中心部を流れる3本の川、白川・坪井川・井芹川から「水と森の都」とも呼ばれ、都市計画にも自然と共存した街づくりが盛り込まれており、日本有数の田園都市として発展を続けている。 2010年度末には九州新幹線の熊本駅開業が予定されている。市内南部の富合地区には九州新幹線の総合車両基地が建設中である。 熊本県熊本市の地理 位置・地形 福岡市から南へ約110km、鹿児島市から北へ約180km、熊本県の中央部よりやや北側に位置している。 旧城下町を中心に市街地が発展してきた。熊本城の東側には上通、下通、サンロード新市街と呼ばれる中核市最大規模のアーケード街が1km以上にわたって連なり、その周囲に中心市街地が形成されている。他の九州各県は駅周辺にアーケード街があるのに対し、熊本駅の周りにはない。従って、徒歩、もしくは市電等を利用して中心街へ出る必要がある。市役所、日本郵政株式会社九州支社、日本最大規模のバスターミナルである熊本交通センター(1日6,012本)、2つの百貨店などがある。 阿蘇外輪山へと続く市の北東部や東部は、一部に立田山や託麻三山、白川沿いの河岸段丘など起伏のある地形もあるが、全体としては阿蘇の火山灰土からなるなだらかで農地や住宅地に適した丘陵地となっているため、国道57号沿線の健軍地区 - 帯山・長嶺地区 - 武蔵ヶ丘地区を軸に住宅地が広がっている。熊本市の人口は中央部とともに東部に集まっている。 市の南東部 - 南部は熊本平野の一角をなし、平坦な風景が広がる。江津湖の南側から加勢川沿いの田迎・御幸・川尻周辺、さらに緑川を挟んで南側に位置する富合にかけては低湿地であり、以前は大雨が降ると浸水する被害もでていたが、排水設備が整備された現在では宅地化も進んでいる。旧来からの広々とした田園風景も残っており、所々に小川やクリークなども見受けられる。飽田・天明地区は主に干拓によって拓かれた田園地帯である。 市の西側は有明海(島原湾)に面し、白川や坪井川が注ぎ込む。海は遠浅で港湾とするのに適しておらず、臨海部はほとんど工業化・都市化していない。わずかに沖合に人工島を造成し熊本港が建設され、長崎県島原市や天草市との航路が設定されているが、周辺土地の分譲はほとんど進んでいない。市の北西側には金峰山 (665m) ・二の岳 (685m) などがそびえ、その東麓は中心部から伸びる住宅地と森林が入り交じり、夏目漱石に「森の都」と呼ばれた風情を今も見せている。 東方にそびえる阿蘇外輪山一帯に降り注いだ雨は地下に浸透し、約20年かけて平野部に達する。この豊かな地下水によって熊本市の水道水はまかなわれ、水前寺成趣園や江津湖などにも湧出している。なお、世界の50万人以上の都市で、水道水源を100%地下水だけでまかなっているのは熊本市だけと言われており、「日本一の地下水都市」または「世界一の地下水都市」ともいわれる。しかし、近年は田畑の耕作放棄、森林の管理放棄などによる涵養地の減少や工場の取水などのため、地下水位は低下しつつある。また、最近では「熊本市は地下水のため水道代が無料である」という情報があるがこれは間違いであり、無料で使っている人は、家の近くに井戸があり、それを利用している人である。
気候年平均気温は概ね16℃前後、年間降水量は概ね約1,500mm - 2,000mmの間で推移している。有明海に面しているものの内陸性の気候で、佐賀と並んで夏冬の寒暖の差が大きい。特に夏場は「肥後の夕なぎ」と呼ばれる夕方の無風状態が続き、暑さが厳しく、最高気温が鹿児島や沖縄をしのぐ日も少なくない。冬場は氷点下まで下がることもあるが、降雪日数は少ない。春は桜の開花が高知などとともに早い。 熊本都市圏と合併・政令市問題2000年国勢調査を基準にすると、熊本都市圏の10%都市圏の人口は102万人、1.5%都市圏の人口は146万人である(→熊本都市圏参照)。 「平成の大合併」初期において、周辺7町から熊本市との合併を話し合う法定協議会設置の住民発議が起きた。政令指定都市の人口要件緩和措置から、合併は政令市化の道筋となる可能性があったが、当時、熊本県では政令市化に伴う権限委譲に消極的であり、また、熊本市ではくまもと未来国体開催に伴う財政悪化問題があった。3町では合併の是非を問う住民投票において反対派が大差で勝ち、7町議会でも合併案件は相次ぎ否決されて、この時点での熊本市の政令市化はならなかった。 ところが、交付金削減に伴う周辺自治体の財政難、自治体人口・10%都市圏人口ともに下回っていた新潟市・静岡市・浜松市などが合併・政令市化したこと、近い将来の九州新幹線開業による都市間競争への対策、そして、将来の道州制導入において州都を目指す熊本市の立場から、10%都市圏とほぼ同じ範囲の「101万人熊本都市圏」(3市12町1村 - 設定時)を対象として、「熊本都市圏及び政令指定都市についての研究会」が関係自治体などで結成された。最近の動きを以下に記載する。
このうち、益城町と城南町では2008年9月に議会にて法廷協議会設置案件が通過し、10月に揃って熊本市との間で法定合併協議会が設置され、さらに植木町も住民投票の結果、法定協議会の設置が決まった。このまま合併が進めば、政令指定都市昇格の条件となる70万人を突破することになる。 九州行政・民間の準中枢都市機能以前は九州の行政の中心都市として整備された名残で、現在でも熊本市には九州全域、または南九州地区を統括する国の出先機関がいくつか存在する。民間の中にも南九州エリアの中枢機能を置いている企業もあり、福岡市に続く九州内の中枢都市としての役割も併せ持っている。
財務局、国税局、農政局などの各種出先機関のほか、戦前、郵政・放送・通信を所管した逓信省の出先機関・熊本逓信局が九州一円を管轄していたため、この系統の機関が長らく熊本市に置かれている。現在、国の合同庁舎は熊本城内にあるが、九州新幹線全線開業に合わせて熊本駅南側に移転することが決定している。 郵政省の出先機関・九州郵政局の後身である日本郵政公社九州支社に関しては、郵政公社民営化後も九州の銀行、窓口、郵便、簡保など郵政4事業の全ての業務は熊本で統括することになり、ゆうちょ銀行の九州統括店は熊本城東郵便局に、かんぽ生命の統括店は熊本中央郵便局に、郵便事業会社と郵便局会社の九州支社も従来通り、熊本市城東町の郵政公社九州支社ビルに残置された。また、全国の郵政職員の人事や経理を集中管理する300人体制の管理センターも熊本市に設置され、明治以来の郵政城下町は民営化後も継続することになった。なお、メルパルクも熊本市水道町にある。 かつての電電公社の九州統括拠点も熊本に置かれていた。民営化後も引き続きNTT九州支社が置かれたが、改正NTT法に基づくNTTグループの再編・NTT西日本の発足により九州支社そのものが廃止された。しかし、現在では中九州(熊本県・大分県)の地域統括会社・「NTT西日本-中九州グループ」のエリア拠点として再出発している。ちなみにNTT西日本九州病院は熊本市にある。NHK熊本放送局も、当初九州地区の基幹放送局として1928年に九州で最初にラジオ局を開局した。福岡のNHK放送センターが完成する1992年までは基幹局の機能を持ち続けた。 一方、九州全域や南九州エリアの中枢拠点を熊本市に配置している民間企業や各種法人も幾つか存在する。
など 隣接する自治体
名所・旧跡・観光スポット
人口
熊本県熊本市の歴史 律令制下では概ね肥後国の飽田郡・託麻郡の区域に当たる。応仁年間(1467年-1469年)に出田氏が千葉城(現在のNHK熊本放送局所在地)を居城とし、1496年(明応5年)豊後守護大友氏に属する鹿子木氏が茶臼山西南麓に隈本城を築城した。やがて鹿子木氏が菊池氏についたため、1550年(天文19年)大友氏配下の城親冬が入った。 戦国時代の肥後国は数十の国衆が割拠していたが、安土桃山時代に入り豊臣秀吉の九州平定により、1587年(天正15年)に佐々成政が肥後49万石に封ぜられ、隈本城へ入った。しかし、失政により肥後の国衆一揆が起きると、翌年改易され、代わって加藤清正が肥後北半24万石に封ぜられ、隈本城を居城とし統治を開始。治山治水や干拓による土地開発などを積極的に行い、荒廃していた土地を改良し生産力を向上させた。清正は1607年(慶長12年)に新たな隈本城を築き、その後、当地の呼称を隈本から熊本へと改名した。これ以降、熊本は城下町として発展していくことになる。加藤氏は清正の子、忠広の代で断絶し、1632年(寛永9年)以降は小倉藩から移封され熊本藩主となった細川氏の城下町として栄え、明治時代に至った。 1877年(明治10年)の西南戦争により城下町は灰燼に帰したが、九州の中央部にある主要都市ということで九州の中核と位置づけられ、熊本鎮台・第五高等学校など、九州を管轄する各種の国家機関が設置された。1889年(明治22年)市町村制度施行により市制施行、当初の人口は42,725人。1900年に成立した鉄道唱歌第2集山陽・九州編で「九州一の大都会 人口五万四千あり」と歌われるに至った。 戦後は日本の産業構造の変化により、まずは工業力の強い北九州市が、次いで商業や交通の結節点である福岡市が九州の中心となり、国の出先機関や大企業の支社は福岡に立地を求めた。1970年代の山陽新幹線博多駅開業や福岡市の政令指定都市移行はその流れに拍車をかけた。しかし現在でも九州を管轄する国の機関の一部は熊本市に置かれており、政令指定都市や州都を目指し発展を続けている。 熊本県の歴史も参照
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