大阪府豊中市の情報
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大阪府豊中市の概要
豊中市
とよなかし
| 国 |
日本 |
| 地方 |
近畿地方 |
| 都道府県 |
大阪府 |
| 団体コード |
27203-5 |
| 面積 |
36.38km²
※境界未定部分あり |
| 総人口 |
388,373人
(推計人口、2008年10月1日) |
| 人口密度 |
10,680人/km² |
| 隣接自治体 |
大阪府:大阪市、吹田市、
池田市、箕面市
兵庫県:尼崎市、伊丹市
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| 市の木 |
キンモクセイ |
| 市の花 |
バラ |
| 他のシンボル |
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| 豊中市役所 |
| 所在地 |
〒561-8501 |
大阪府 |
豊中市中桜塚三丁目1番1号
北緯34度46分53.4秒東経135度28分10.7秒
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| 電話番号 |
06-6858-2525(代表)
くらしのガイド
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| 外部リンク |
豊中市 |
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■:政令指定都市 / ■:市 / ■:町・村
SVGMAP
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特記事項:
男 186,213人 女 201,121人
世帯数:162,658世帯(2006年8月末現在)
外国人登録者数:5,016人(1.27%)(2005年12月末現在)
<参照>豊中の統計情報
海抜:0m〜133.7m(133.7mは新千里北町)
東西6.0km,南北10.3km
市街化区域 36.60km² (100%) |
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| ■テンプレート (■ノート ■解説) ■日本の市町村PJ |
豊中市(とよなかし)は、大阪府北部の北摂地域に位置する市。
明治以前は能勢街道の中間地点として栄えた。明治以降は箕面有馬電気軌道(現阪急電鉄)の沿線開発とともに住民が増えた。戦後は大阪都心から15km圏内という利点を活かし、北東部の新千里地区を中心に大阪都市圏の衛星都市、ベッドタウンとして、昭和30年代から千里ニュータウンの開発が急速に進んだ。そのため下水道などの都市基盤設備(インフラストラクチャー)の整備率は高い。交通面でも、阪急電鉄、北大阪急行電鉄と阪急バスによる公共交通網、中国自動車道 、名神高速道路、阪神高速池田線、新御堂筋をはじめとする幹線道路網、それに市北西部の大阪国際空港(伊丹)の存在など、至便の地である。交通については後述(1)。
概ね、阪急宝塚線の旧豊中エリア、地下鉄御堂筋線の延長である北大阪急行電鉄の千里地区に分けられる。高級住宅地の北部(東豊中・緑丘・上野坂)、中部(曽根・桜塚・長興寺)そして商業地の南部に分かれる。北東部の一角を日本初のニュータウン、千里ニュータウンが占める。
平成13年(2001年)4月1日、「地方分権一括法」によって「特例市」に移行した。
大阪府豊中市の地理
大阪府豊中市の歴史
- 豊島(てしま)の名が文献にみられるようになったのは和銅5年(712年)太安万侶が撰上した古事記中巻からで、その後、神護景雲3年(769年)称徳天皇が豊島の人15人に姓(カバネ)を賜わった記録が続日本紀にみられる。
- 明治維新を迎え、廃藩置県後、村々の行政機構は改革され、数次にわたる行政区画の編成替えなどが行われた。明治22年4月、地方自治制がしかれ、摂津国豊島郡新免村(てしまぐんしんめんむら)、南轟木村(みなみとどろきむら)、山ノ上村、桜塚村、岡町村の5ヵ村を合併して豊中村が置かれた。「豊中」の地名が生まれたのはこのときで、豊島郡の中央にあることから名付けたと伝えられている。これらの豊の字は戦前は豐であり、旧字体では豐中と表記した(戦前より存在していたウツワの意の豊ではない)。
- 年表
- 白鳳12年(684年)天武天皇が桜塚の祇園神祠(現在の原田神社)で勅祭を執り行い、神宝・神鏡ならびに獅子頭を奉納する。桜塚の地は皇族や後の武家に重用されることとなる。桜塚には古墳群が数多存在し、古代より豪族との関係も深い。
- 和銅5年(712年) 太安万侶が撰上した古事記中巻に『日子八井(ヒコヤヰ)命は、茨田連(まむたのむらじ)、手島連(てしまのむらじ)の祖である。』と手島連(豊島郡の氏族)の名称が出てくる。
- 神護景雲3年(769年) 5月 称徳天皇が豊島の人15人に、姓(カバネ)を授けた(続日本紀)。
- 弘仁6年(815年) 万多親王らが撰進した新撰姓氏録には、当地方の氏族として椋橋部連・天神・服部連・豊島連などの名が記されている。
- 荘園時代には、椋橋荘、原田荘、服部荘などができる。
- 院政期には豊島地方の多くは藤原氏の私領になり、藤原氏の氏神春日神社とも密接に結ばれた。
- 寿永2年(1183年) 源平合戦のとき、氏長者の近衛基通から春日神社へ寄進され、豊島郡は垂水西牧と呼ばれ、荘園の崩壊後も永く続いた。
- 承久3年(1221年) 5月 摂津国長江荘と椋橋荘の地頭が白拍子亀菊の領地を横領し、これがきっかけとなって後鳥羽上皇と鎌倉幕府の間に溝ができ、承久の乱が起こった(吾妻鏡、承久記(承久軍物語))。
- 建武3年(1336年) 2月6日 南北朝時代に北畠顕家、新田義貞らは摂津国豊島河原において足利尊氏との合戦が展開される(太平記)。
- 寛正2年(1461年) 6月 久米井用水をめぐって、原田郷と川辺郡田能村との間に相論が行われ、原田郷の勝訴となった。
- 1467年〜1477年 応仁の乱には、豊中市域も戦乱のちまたになった。椋橋城などはその代表的なもので、東西両軍が秘術をつくした記録が数多く見られる。
- 戦国時代には刀根山城・勝部城・原田城・西市場城・今在家城・穂積堡など、地主、土豪が相次いで居城を築いたが徐々に姿を消す。
- 天正元年(1573年) 織田信長からその才を認められて荒木村重が摂津一国を与えられる。
- 天正6年(1578年) 11月 荒木村重が織田信長に謀叛をおこす。信長は刀根山城に拠る。
- 天正7年(1579年) 6月 信長に攻められ、伊丹城落城。村重は転々と居城を逃げ回る。
- 寛永3年(1626年) 上新田・下新田の開発が行われる。
- 江戸時代には大名青木氏(1万石)が麻田城を築いて政治を行った。上新田は淀藩の領地、桜井谷には岡部藩の陣屋、その他に一橋藩領、保科藩領や代官支配地、公家領、旗本領、天領などが入り組んだ。これは徳川幕府が「入組支配」を行い、統一のないものにするための政策で、このため明治維新後も府県、郡村の離合集散が重ねられた。
- 元禄14年(1701年) 7月 岡町の4料理屋が多くの遊女をおいたので、年寄が差し止めた。
- 文政13年(1830年) 8月 阿波から始まった御蔭踊りの狂乱が、河内、大和、摂津の村から村へと伝わった。
- 慶応3年(1867年) 12月 豊中の各地に社寺のお礼が降った。
参照:Wikipedia http://ja.wikipedia.org/