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島根県安来市の情報 島根県安来市の概要
安来市(やすぎし)は、島根県の市。慣用的には安来は「ヤスギ」と発音しているが、風土記伝承から考えると古代においては「ヤスキ」と読まれていたとの指摘がある(関和彦著「出雲国風土記註論」明石書店(1996))。旧能義郡。 島根県安来市の地理 隣接する自治体
島根県安来市の歴史 弥生/古墳時代の間にかけて出雲に強力な王権が発生する(古代出雲参照)が、その中心地(東部出雲王朝)だったと言う説があり、全国最大級の方墳である造山古墳群や出雲文化圏特有の四隅突出型墳丘墓(国内最大級の集中地帯)などを含む多くの古墳が発掘されており、弥生から古墳時代にかけて約500年の間、連綿と栄えた地域である。当時の出雲は筑紫、大和、毛野と並ぶかそれ以上の日本列島の有力な地方政権で、弥生後期においては北陸まで及ぶ日本海沿岸には四隅突出型墳墓形式で規格化された連合政体のようなものがあった。つまりヤマトとともに抜きん出た勢力を誇り意宇王の指導のもとで一時は独立王朝をなしたという説がある。しかし、最終的には日本神話の「国譲り」語るように、ヤマト政権に属するようになった。奇しくもそれを大穴持大神が宣言したのも同市伯太町であったと出雲風土記は伝えている。 山陰では鉄器も北九州に準ずる量が発掘されており、ここ安来でも弥生期の製鐵遺構が竹ヶ崎・柳遺跡見つかっているため、これらの鉄が当時鉄不足であった大和地方へ供給されヤマト朝廷建国の原動力となったという説がある。実際前近代的な野だたらは弥生時代以降、連綿と続いていたようで製鉄遺跡として認知されている。 そのためか、記紀への登場も早期からであり、古事記、日本書紀においては根之堅州国(ねのかたすくに)あるいは根之国(大和島根、島根県の語源とされており、伊邪那美(いざなみ)尊の御神陵と言われているところも存在することから修理固成の源郷という見方をするものもいる。黄泉国参照。)と呼ばれスサノオノミコトが統治していた地方に該当するのではないかとも言われており、市内には出雲神道の流れを汲む古社も多い。地名が文献上登場したのは天平6年(西暦733年)の出雲国風土記に「出雲国意宇(おう)郡安來郷」とでている。おそらく神代からの名称であり、都市名では最古の部類の属す。この当時より安来の山中や船通山周辺を源とするオロチ河川群の周辺ではたたら吹き(タタラ=多多良、鈩、踏鞴、鞴韜)、たたら製鉄と呼ばれる古代製鉄法が盛んであったがためスサノオノ尊のオロチ伝説が生まれたとされている。このヤマタノオロチは退治され埋められた後、八本杉を植えた伝承が隣接する奥出雲町、雲南市、鳥取県日野郡をはじめとするオロチ河川群の周辺地方等に残っているがこの八本杉(八杉)が安来の語源とする説もある。そのため市内だけでも数十以上(伯太町、広瀬町)も存在するたたら製鉄の遺跡や周辺地方には日本刀の最古の刀匠、伯耆国安綱の工房跡碑(鳥取県西伯郡)などもあることから、古くから冶金技術が発達していた雲伯地方一帯(旧名;意宇郡、能義郡)の中心都市であったことが伺える。そのため、近接する伯耆国大原では日本刀の創始であり宮本武蔵の愛刀である「童子切り」の安綱なども輩出している。このような背景から映画もののけ姫の舞台のモデルともなった。 古代より中海(錦海)に面した天然の良港、安来の港はふるくは朝鮮半島との交易も盛んであり、万葉集では於保の浦、時代が下ると金ヶ浦、錦ヶ浦という名などで登場している。そのため市内に数多くある古墳からは当時の出雲地方としては珍しい天叢雲剣を髣髴させるような鉄製の刀剣、鉄器類が出土している。そのため、神在月には出雲を目指す神様が安来湊にまず集結し、鉄の買い付けを行うというような伝説も残っており、古代出雲の海の玄関口として反映したことが伺える。戦国時代に至っては尼子氏の物資輸送、海戦拠点ともなり、中国地方の戦国両雄である尼子氏対毛利氏の激烈な戦いが繰り広げられた。この中で有名な悲運の名将山中鹿介らが活躍しその模範的ともいえる武士道精神は池波正太郎著「黒幕」等の数々の小説、物語の題材となっている。 江戸期に入ると尼子・毛利両氏が営んだ月山富田城から松江城に出雲支配の中心が移り繁栄に一時翳りがあった。 しかし江戸中期より日本の商品経済が発展し北前船による交易が盛んになり、鉄資源を求めて奥出雲側に移動していった製鉄地帯ではそれまでの野だたら法から量産型の永代たたらへ移行すると、安来湊が重要港となり山陰地区の和鉄・和鋼を一手に取り扱う一大商都と成長した。当時の国内の鉄生産量の実に90%以上にものぼる素鉄・素鋼品の製造はもとより流通を取り扱い繁栄を極めた。しかし、明治後期に入ると、たたら製鉄法は衰退の危機に直面するが、たたら師たちが日本初の民間鉄鋼会社「雲伯鉄鋼合資会社」を設立した(製鉄業と一線を画し、近代鉄鋼産業の発祥と定義する説もある。)。その後、その会社は日産コンツェルン総帥鮎川義介による近代技術の導入、その後の伝統製鋼法の近代的画期、高級特殊鋼への特化を経て現在も鋼都としての存在をゆるぎないものにしている。これら鉄鋼(和鋼(玉鋼)、和鉄)の歴史については、安来市立和鋼博物館でうかがい知ることが出来る。この地で生産された鋼は安来鋼(ヤスキハガネ)というブランド名で日立金属株式会社が製造を続けており日本有数の最先端の鉄鋼開発拠点の一つとなっている。また、安来市を中心に隣接する奥出雲町、雲南市と連携し「鉄の道文化圏」という観光ネットワークを作り山陰の鉄文化の伝承、観光コンセプトの開発をおこなっている。 文芸面では大正時代に、それまでの華やかな安来文化の蓄積である安来節を全国に広めた渡部お糸、その後は陶芸家、河井寛次郎や、彫刻家、米原雲海など日本文化の伝統を主軸にした近代芸術家を多く輩出した。特に、河井寛次郎らが行った、民芸品への美術的価値を見いだす「用の美」の美学は昭和時代に渡りの日本人の工芸、料理、産業人の精神的なバックボーンを形成してきたことは言うまでも無い。 参照:Wikipedia http://ja.wikipedia.org/
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