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和歌山県東牟婁郡北山村の情報 和歌山県東牟婁郡北山村の概要
北山村(きたやまむら)は、和歌山県東牟婁郡の村である。和歌山県に属しながら、周囲を奈良県と三重県に囲まれており、日本では唯一の市町村単位の飛地がそのまま領域になっている自治体である。紀伊半島南部の山間部に位置している。 平成の大合併で他の村が消滅した結果、和歌山県で唯一の村となった。 和歌山県東牟婁郡北山村の地理 人口
和歌山県東牟婁郡北山村の歴史 古来よりこの辺りで木材を切り出し、北山川に流して下流の新宮で商人がそれを受け取り売るという形態でこの辺りの人々の暮らしが成り立っており、新宮との結びつきが強く江戸時代にはこの地域は紀州藩新宮領に属していた。廃藩置県で新宮が和歌山県に入ると、この村は新宮との結びつきの強さゆえに和歌山に入ることを望み、またそれが成ったのである。これが飛び地村が出来たわけである。 筏は大台ケ原方面から新宮まで北山川を流し運ばれ、北山村大沼付近が中継点となっていた。上流の筏師はここから引き返し、下流は北山村の筏師が引き継ぎ、夏場は2日程度、冬場は3日程度かけて新宮まで材木を運搬していた。 北山川でも北山村から瀞峡付近までが最大の難所とされ、現在の北山川観光筏下りの最初の瀬であるオトノリはかつて弟乗りといわれ、後継ぎの長男は乗らないといわれた逸話がある。ここを乗り切る北山村の筏師の櫂さばきは筏師の華とされていた。 北山川の筏師の技術は国外でも評価され、鴨緑江まで請われ出稼ぎに行った話も伝えられており、鴨緑江では馬賊に襲われたことがあるといわれている。 命がけで材木を新宮港まで運ぶ筏師は非常に高収入であったといわれ、新宮まで下ると高額な報酬を手にすることができたが、新宮で豪快に遊んで帰ったため資産は蓄えなかったともいわれている。しかし、食糧難であった当時、宿泊する宿では食料を持参してくるため筏師は大喜びで迎えられたようである。 昭和40年代に入りダムが建設され、筏師は姿を消したが、昭和54年に北山川観光筏下りとして筏流しが復活し、当時の筏師が復帰、再び活躍の場が与えられた。 ダム建設により、熊野市までの道路が整備され、現在はむしろ三重県の熊野市などとの結びつきが強くなり、三重県の市町村との合併により和歌山県の飛び地でなくなろうという動きも見られたが、住民投票の結果和歌山県に残った。2005年に多く行われた市町村合併のときは、新宮市に合併するかという具体案があったが直前に中止になった。 自治体としての北山村が成立したのは町村制の施行と同時の1889年(明治22年)である。当時和歌山県に属していたそれまでの七色村と竹原村、大沼村、下尾井村、小松村が合併してこの北山村が成立したのである。それ以来この村に合併などは一切無く、飛び地ゆえに人口が少なくとも一村を維持してきた。 北山村は、公家の落人が住み着いたことによって始まったと伝わっており、それまでは誰も住んでなかったとされている。上更家(うえさらいえ)、更家(さらいえ)、下更家(しもさらいえ)等の苗字が確認されている。彼らの子孫が、武家から商人に転じて木材を扱い始めたというため、新宮市に多くいる更家とはルーツが違うとされている。 また、七色ダム建設により多くの集落が湖底に沈んでいる。 参照:Wikipedia http://ja.wikipedia.org/
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