参加引越し業者一覧
「引越し見積たい.com」で見積もり依頼が出来る引越し会社の一覧です。
レ舀
引越し用語
覚えておくと役に立つ引越し用語集です。
レ舀
掃除のコツ
ちょっとの工夫で、きれいに掃除!だけじゃなく、普段の掃除でも使えます
レ舀
段取り
手間を減らして効率よく進めるための流れです。
レ舀
収納のコツ
工夫次第で今のスペースを120%活用できます。
レ舀

山口県山口市の情報

エリアHOME山口県山口市


山口県山口市の概要

山口県庁舎から望む山口市街地

県庁所在地であるものの、山口県内の経済活動においては下関市、宇部市、周南市などの方が盛んであり、関門都市圏と広島都市圏に挟まれた谷間の地域ともいえる。市内中心部にある湯田温泉を中心として、萩、秋吉台、津和野などの観光の拠点となる観光都市でもある。オーストラリアのキャンベラや、ブラジルのブラジリアのような政治、文化に特化した日本において数少ない県庁所在地である。

現在の山口市は3代目に当たる。旧・山口市と旧・小郡町、旧・阿知須町は、戦前に一度合併したのちに再び分離し、平成の大合併で再度合併をしている。2005年(平成17年)10月1日に合併する直前まで人口が約14万人に過ぎず、下関市、宇部市、周南市に次ぐ県内第4の都市であった。現在でも人口規模では下関市に次ぐ存在であり、全国の県庁所在地で最も人口が少ない[1]ことで知られる。また、全国の県庁所在地で最も人口密度や平均地価が低い[2]。

室町時代に「西の京都」と呼ばれた狭義の山口市は、山口線沿線に当たり、市の中心部には山陽本線が乗り入れてない。これは、山陽本線建設時、銭湯小路の宿主が「宿場町が寂れるから」と反対された為である(鉄道忌避伝説も参照のこと)。このことも町が大きく発展しなかった一因と考えられている。

山口県山口市の地理


人口
山口市と全国の年齢別人口分布図(比較) 山口市の年齢・男女別人口分布図
■紫色は山口市
■緑色は日本全国
■青色は男性
■赤色は女性
1980年 162,100人
1985年 172,304人
1990年 177,852人
1995年 184,039人
2000年 188,693人
2005年 191,677人
総務省統計局 / 国勢調査(2005年)

山口県山口市の歴史


南北朝時代に大内弘世が大内氏の本拠とする。室町時代には大内館が築かれ、日明貿易が行われる。応仁の乱以後には乱を逃れてきた文化人を歓迎したので、「西の京」として栄え、戦国時代には大内義興、大内義隆が市街を整備し栄華を極めた。義興に庇護され後に京へ戻った室町幕府10代・12代将軍の足利義尹(義稙)、雪舟、フランシスコ・ザビエルなど、この町に縁のある人たちは多い。

1552年12月9日(西暦では12月24日)に山口の宣教師コスメ・デ・トルレスらが、司祭館に日本人信徒を招いてクリスマスの祝を催した。このため、日本のクリスマスの発祥の地は山口である。

大内氏滅亡後、毛利氏の支配のもとで山口奉行が置かれたため、山口は防長二国における政治的中心地となった。関ヶ原の戦いののち、防長二国に減封された毛利輝元が萩に居城(萩城)を構えたため、山口の政治的中心性は一旦消滅することとなった。

江戸時代の間、萩と三田尻(現在の防府市中心部)を結ぶ萩往還の中継地として栄えた。 幕末になると、長州藩は藩庁を萩から山口へ移すことになり、山口はふたたび防長二国の政治的中心地となった。山口に移された藩庁は山口政事堂と呼ばれ、長州藩における討幕運動の拠点となった。

明治に入ると廃藩置県が実施され、長州(山口)藩庁は山口県庁にそのまま移行した。一時期県庁移転が提起されたこともあったが実現には至らず、山口は山口県成立から現在に至るまで県政の中心地であり続けている。

なお、長州藩の藩校である明倫館も藩庁移転に伴って萩から山口に移転、旧制山口高などを経て、現在の山口大学へとつながっている。山口大学は1973年に平川へ移転完了したが、旧亀山校地(山口明倫館跡地)にはパークロード(県道203号)を中心に県立図書館・県立博物館・県立美術館が整備され、周辺一帯は山口県における教育・文化の中心地たる景観をなしている。


参照:Wikipedia http://ja.wikipedia.org/

▲ページのトップへ