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山梨県甲府市の情報 山梨県甲府市の概要 市域は山梨県の中央を三日月形に南北に縦断しており、中心部は甲府盆地の中央北寄りに位置する。中央本線で新宿駅から約125km(特急約1時間30分)、中央自動車道で高井戸ICまで約110kmなど、東京との間では北関東の各県庁所在地と似た距離感に位置する。そのため東の関東地方への志向性が強い。山梨県は首都圏整備法上の首都圏に属する県であり、関東各都県の県庁所在地と同様に扱われる事もある。 2000年11月1日に特例市に指定された。近年では、宝石産業の街としても有名である。 甲府という名称は、1519年(永正16年)に武田信虎が居館を石和(現在の笛吹市石和町)、次いで川田(現在の甲府市川田町)から躑躅ヶ崎館(現在の武田神社・甲府市古府中町)へ移した際に、甲斐国の府中という意味から甲府と命名したことに始まる。戦国時代には大名領国を形成した武田氏の本拠地となり、武田氏滅亡後は徳川氏や豊臣系大名浅野氏の甲斐国経営の中心となり、国中地域や甲斐国の政治的中心地と位置付けられる。江戸時代には江戸の西方の守りの要として重要視され、また甲州街道の宿場町としても盛えた。 山梨県甲府市の地理 山 金峰山、愛宕山 河川笛吹川、荒川、貢川、相川、濁川 湖沼千代田湖、能泉湖 景勝地昇仙峡、甲斐風土記の丘 隣接自治体
山梨県甲府市の歴史 市域に旧石器時代の遺跡は見られないが[1]、縄文時代の遺跡が北部山間地から中部の沖積低地にかけて散在する。山間部では縄文早期からの遺跡がみられるが、いずれも一次的な狩猟採集の拠点となったもので、縄文後期初頭には消失している。盆地低部では上石田の上石田遺跡で定住の痕跡が見られ、生産活動も開始された。 弥生文化は東海系や北陸系などの特色をもった土器が発見されていることから複数経路で導入されたと考えられているが、河川の氾濫原に位置するため遺跡は後期集落跡の見られる千塚の榎田遺跡など自然堤防上や微高地上にわずかにあり、増坪遺跡から炭化米が発見されているのみで市域では水田跡は見られない。 甲府盆地での古墳の築造は4世紀にはじまり、旧中道町域の曽根丘陵では畿内色の大型古墳が築造されているが、6世紀には盆地周縁に広まり、被葬者層も拡大する。市域では6世紀後半から7世紀前半を中心に200基以上の古墳が分布し、特に東部の里垣・甲運地区や西部の湯村・千塚など山麓地域に多い。湯村山周辺には、6世紀前半の横穴式石室を持つ万寿森古墳や加牟那塚古墳など盆地北西部勢力の大型古墳があり、横根町から桜井町にけての横根・桜井積石塚古墳群は、渡来人集団の工人が被葬者であるとも考えられている。 律令制下には巨麻郡、山梨郡に属する。古代甲斐国の有力豪族は早くから畿内王権と関わりをもち、甲府盆地東部では仏教文化を導入し、寺本廃寺(笛吹市、旧春日居町)など古代寺院が建立されているが、甲府市域には川田町の川田瓦窯跡や桜井町の上土器遺跡など近隣の森林資源を活かした土器や瓦を生産していた施設があり、甲斐国分寺をはじめ盆地東部の古代寺院へ屋根瓦が供給されていたと考えられている。また、市域にも和戸町の桜井畑遺跡には8~9世紀の小規模寺院跡が発見されており、盆地西部へも仏教文化が浸透していた。また、霊山として知られる市域北端の金峰山には山岳信仰を示す信仰遺跡があり、平安時代中期には末法思想の影響から上積翠寺町の一の森山頂などで経塚造営が行われた。 常陸国から配流された源清光の子孫が甲斐各地に拠り甲斐源氏として発展するが、市域では板垣郷に拠った板垣氏や一条郷に拠った甲斐一条氏や飯田氏、塩辺氏、小松氏らが勢力基盤とした。中世には一条や板垣らが治承4年(1180年)には源頼朝の挙兵に呼応して活躍するが、頼朝によって排斥されて勢力は衰亡し、市域南部の稲積荘には加賀美氏や小笠原氏らが進出する。また、中世には市域南部の低湿地の開発が進む。 戦国時代には武田氏が国内統一を進め、武田信昌は市域東部の川田へ居館を構え、石和市部宿と複合城下町を形成した。永正16年(1519年)には武田信虎が古府中に躑躅ケ崎館を築き、家臣団を集住させて新たに城下町が形成された。古府中は信虎、信玄、勝頼と3代にわたり領国拡大を進めた武田氏の本拠地となる。天正9年(1581年)には武田勝頼が韮崎に新府城を築き府中を移転させるが、武田滅亡により新たな城下町の建設は行われず、織田氏や徳川氏の統治時代にも府中として機能した。 一条小山の甲府城築城は徳川氏の関東転封に伴い、豊臣氏の大名である加藤氏、浅野氏等に引き継がれる。甲府城は慶長5年(1600年)に完成し、城下町も建設されて新府中(下府中)が形成され、内郭部には武家が集住し、外郭部には町人地となる。古府中(上府中、元府中)には商人町や職人町となる。甲府城下町は上府中26町、下府中23町で構成され、中心は人口の集中する下府中であった。町政は町奉行のもと、町人を代評する町年寄にあたる検断が町政運営を担い、各町を代表する長人(名主)がその指揮に従った。 江戸時代には徳川家康の9男徳川義直、徳川家光の弟の徳川忠長、家光の三男の徳川綱重、六代将軍となる徳川家宣等徳川氏の一族が領主となった。例外として五代将軍徳川綱吉の側用人である柳沢吉保・吉里父子が領主となった。甲府は各支配者により整備され城下町として発展するが、享保9年に将軍吉宗の主導する享保の改革の一環として甲斐一国の天領化が実施され、甲府勤番城の守護と城下の政務を担うと、武家人口の低下や在方経済の伸長の影響を受けて、江戸中期には甲府の人口は減少している。 明治には初代公選知事として赴任した藤村紫朗が、殖産興業と並行して甲府市街の開発を行い、勧業製糸場をはじめ「藤村式建築」と呼ばれる擬洋風建築で統一された諸施設が整備された。 戦後には市域へも工業団地の造成が進み、高度経済成長期には機械工業都市としても発展する。また、交通機関の整備により観光が主用産業となり、自然や歴史的資源など観光資源に着目した町づくりを行っている。
参照:Wikipedia http://ja.wikipedia.org/
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